名前

勇は、養子に貰われたりなどして、名前が何度か変わっている。
幼名:宮川勝五郎(宮川家三男)
・嘉永3年頃より安政2年頃まで:島崎勝太
・安政4年頃より安政5年頃まで:島崎勇
・安政6年頃より万延元年頃まで:島崎勇と近藤勇の併用
・文久元年頃より慶応3年頃まで:近藤勇
・慶応4年頃:大久保大和

近藤姓を継ぐのは、天然理心流の宗家を継ぐことを意味しているため、このような段階を経たものと思われる。ちなみに、勇が正式に宗家を継いだのは文久元年8月。






























家族

天保9年2月の宗門人別帳による宮川家
百姓源次郎年67
同人伜久次郎年40
同人娵みよ年37
同人孫音次郎年9
同人孫粂蔵年7
同人孫勝五郎
(後の勇)
年5

母のみよは、この翌年、38才で没。勝五郎(勇)には姉が一人いたらしいが、この人別以前に没している。






























子供の頃

幼い頃は、父に「三国志」や「水滸伝」など、さまざまな英雄達の話を読み聞かされた。その父の膝に抱かれながら、幼い勝太(勇)は話に聞き惚れ、中でも精忠壮烈な関羽の事磧に引きつけられて「関羽は、まだ生きているの」と何度も尋ねたという。
父はこの末っ子をひときわ可愛がり、あまり叱ることはなかったらしい。
そのせいか、樹に登って下を通る人におしっこをかけたり(^^;)、喧嘩をすれば年上の子でも泣かしてしまうと言った有様で、宮川の暴れ者として村の子から敬遠されたりしたらしい(笑)
時には、このガキ大将をこらしめてやろうと、若者の一人が彼を捕まえ、さんざんに痛めつけたが、涙一つこぼさず痛さを怺えていて、あまりに強情なので、相手の方が呆れてやめた、という話もある。
ただし。勝太は年下の子は決していじめなかった。盗んだ柿も(笑)自分が食べなくても、幼い子たちに分けてやったという。









































人物評

福地桜痴によると。
「彼(勇)は、重厚とも言える人物で、人から頼まれても容易に「うむ」と言わなかった代わりに、一度承諾したら、身命を賭けても実行する、という男であった」





































結婚

★万延元年(1860)3月29日★
《近藤勇、清水家の家臣飯田町松井八十五郎長女ツネを娶る》

ツネさんは、一橋家の祐筆を勤めたこともある女性。
この時、勇先生は26才、ツネさんは24才。当時にしては、結構遅いと思いませんか。
諸説、あります。

一番有名なのは、勇先生はお見合を何度もしたのに、なかなか「うん」と、言わなかった。でも、ツネさんと見合いしてやっと決めた。人が言うのに、「今まで見合いをした人はみな美人だったのに、何で一番見た目のよくないのを選んだのだ」
勇先生曰く「美人はそれを鼻にかけるからいやだ。今度のは楚々としていて地味でよい」と言った、というのと「試衛館(勇先生の道場)には、男が沢山いる。彼らの目を惑わすような女はダメだ」と言った、という説。
どっちも「ツネさんは不細工」という前提での話ですが、ツネさんの晩年の写真を見ると、決して不細工ではない。ただ、ちょっと口元に傷があるように見える、という人もいます。

他に、勇先生は誰でも良いから武家娘と結婚したかったのだ、という説もあります。

あと、勇先生は無理矢理結婚させられた説。
天然理心流は勇先生で四代目なんですが、みんな養子なんですね。勇先生は結婚したくはなかったのに、義父(三代目周斎)や回りの人間が、跡継ぎ欲しさに無理矢理結婚させたというもの。
結局、結婚してから子供が産まれるまでに2年を要している。しかも女の子。ツネさんとの子供はその子一人のみ。子供(瓊子)が生まれた翌年、勇先生は京都へ行ってしまう。(京都では、複数の妾との間に2〜3人の子供が出来ている)
京都時代は、1〜2度、数日間だけ江戸には帰ってきたけど、それっきり。
京都を引き払って江戸に帰ってきたと思っても、ツネさんのところではなく、品川の療養所(怪我をしていた)に詰めて、その後、新選組にあてがわれた屋敷に住んでいた。
で、勇先生は結局流山に行ったりした挙げ句、そのまま斬首。

仕方のないこととは言え、ツネさんは放ったらかされ状態だったわけ。可哀想な人ではあります。その後、娘の瓊子は勇先生の甥(勇五郎。瓊子とは、いとこ同志)と結婚したものの、早く死んでしまった。
一人きりになってしまったツネさんは、勇五郎の後妻を、いびりまくったという話さえあります。

ま、勇先生は結婚する気はなかったのに、無理矢理結婚させられた、という説は、結構信憑性があるらしいです(^^)
ちなみに、私もこの説を支持しております。(根拠はありません)