近藤姓を継ぐのは、天然理心流の宗家を継ぐことを意味しているため、このような段階を経たものと思われる。ちなみに、勇が正式に宗家を継いだのは文久元年8月。
百姓 | 源次郎 | 年67 |
同人伜 | 久次郎 | 年40 |
同人娵 | みよ | 年37 |
同人孫 | 音次郎 | 年9 |
同人孫 | 粂蔵 | 年7 |
同人孫 | 勝五郎 (後の勇) | 年5 |
母のみよは、この翌年、38才で没。勝五郎(勇)には姉が一人いたらしいが、この人別以前に没している。
ツネさんは、一橋家の祐筆を勤めたこともある女性。
この時、勇先生は26才、ツネさんは24才。当時にしては、結構遅いと思いませんか。
諸説、あります。
一番有名なのは、勇先生はお見合を何度もしたのに、なかなか「うん」と、言わなかった。でも、ツネさんと見合いしてやっと決めた。人が言うのに、「今まで見合いをした人はみな美人だったのに、何で一番見た目のよくないのを選んだのだ」
勇先生曰く「美人はそれを鼻にかけるからいやだ。今度のは楚々としていて地味でよい」と言った、というのと「試衛館(勇先生の道場)には、男が沢山いる。彼らの目を惑わすような女はダメだ」と言った、という説。
どっちも「ツネさんは不細工」という前提での話ですが、ツネさんの晩年の写真を見ると、決して不細工ではない。ただ、ちょっと口元に傷があるように見える、という人もいます。
他に、勇先生は誰でも良いから武家娘と結婚したかったのだ、という説もあります。
あと、勇先生は無理矢理結婚させられた説。
天然理心流は勇先生で四代目なんですが、みんな養子なんですね。勇先生は結婚したくはなかったのに、義父(三代目周斎)や回りの人間が、跡継ぎ欲しさに無理矢理結婚させたというもの。
結局、結婚してから子供が産まれるまでに2年を要している。しかも女の子。ツネさんとの子供はその子一人のみ。子供(瓊子)が生まれた翌年、勇先生は京都へ行ってしまう。(京都では、複数の妾との間に2〜3人の子供が出来ている)
京都時代は、1〜2度、数日間だけ江戸には帰ってきたけど、それっきり。
京都を引き払って江戸に帰ってきたと思っても、ツネさんのところではなく、品川の療養所(怪我をしていた)に詰めて、その後、新選組にあてがわれた屋敷に住んでいた。
で、勇先生は結局流山に行ったりした挙げ句、そのまま斬首。
仕方のないこととは言え、ツネさんは放ったらかされ状態だったわけ。可哀想な人ではあります。その後、娘の瓊子は勇先生の甥(勇五郎。瓊子とは、いとこ同志)と結婚したものの、早く死んでしまった。
一人きりになってしまったツネさんは、勇五郎の後妻を、いびりまくったという話さえあります。
ま、勇先生は結婚する気はなかったのに、無理矢理結婚させられた、という説は、結構信憑性があるらしいです(^^)
ちなみに、私もこの説を支持しております。(根拠はありません)