★江戸から京へ★

文久3年江戸から京都まで、試衛館一党が浪士隊として歩いた道程。

日にち歩いた距離宿泊地出来事
二月八日四里三十二丁(19.2k)大宮宿 
二月九日四里二十四丁(18.3k)鴻巣宿 
二月十日九里二十二丁(37.8k)本庄宿 
二月十一日十里五丁(39.8k)松井田宿この日、浪士間に回状
二月十二日七里二十一丁(29.8k)追分宿碓氷峠を越えて信州へ
二月十三日八里四丁(31.9k)長久保宿 
二月十四日七里十八丁(29.5k)下諏訪宿 
二月十五日九里十二丁(36.7k)奈良井宿回状で「火の用心」が言い渡される
二月十六日十里二十二丁(41.7k)須原宿 
二月十七日九里三十五丁(39.2k)中津川宿信州から美濃へ
二月十八日十二里五丁(47.7k)伏見宿 
二月十九日八里八丁(32.3k)加納宿 
二月二十日九里二十六丁(38.2k)柏原宿美濃から近江へ
二月二十一日九里十八丁(37.3k)武佐宿道中の無事を祝って酒がでた
二月二十二日八里二十四丁(34.1k)大津宿 
二月二十三日三里(12.4k)京都着
























★八木家の葬式★

★文久3年(1863)4月8日★
《八木家の童女の葬儀に、近藤、芹沢ら参列する》

新選組屯所にしていた八木家の女の子が、亡くなりました。
芹沢先生と勇先生は二人で並んで座って受付をやったそうです。
芹沢先生ってのは、乱暴者で大変な人だったけれど、酒が入っていない時ってのは、結構愛すべき人なんですよね。私は好きですよ。
けどね、酒が入ってない時って、殆どなかったそうで(爆)
いっつも、赤い顔してたみたい。
一方勇先生の方は全く逆で、酒を飲んで赤い顔したり、酔ったり乱暴したり等の、だらしのないことは決してしなかったそうです。
厳つい顔だったけど、笑うとエクボができて、女性にはたまらなかったみたいっすよ、結構モテたらしい(^^)

で、芹沢先生と勇先生。
ま、そんな二人が、葬式の受け付けをしたんですな。
これだけでも微笑ましいのに、受付がヒマな時、いたずら描き、それも絵を描いていたというんです。
笑っちゃいけないところで、肘でつっ突き合いながら、こそこそと何かを描いては笑いを噛み殺していたのでしょうか。可愛いなあ(笑)
ちなみに、その絵はだいぶ後まで残っていたそうですが、いつのまにか襖の下張りかなんかに使ってしまって、もうないということです。
惜しいぞーーーっ!


























★幹部と女性★

新選組幹部の女達との関わりについて。

勇先生。
彼は江戸にいた頃に妻を迎えている。そのエピソードについては、『江戸・試衛館』のところをご覧ください。
京都では結構女を囲っていた。姉妹に手をつけてたりする。
女のところに通うときは、頭巾で顔を覆っていたという。
勇先生と歳三と佐々木さん(見廻組)と、連れだってよく遊んだとか。
お相手は、勇先生が深雪太夫、歳三が東雲太夫、佐々木さんが浪路太夫。

勇先生は顔は無骨だったけど、とても母性本能をくすぐるような人で、女には凄くモテたらしい。歳三と同じくらいモテたそうです。
結局勇先生は京都で、数人の女に何人か子供を生ませているんだけど、そのウチの女の子が後年、西郷従道や伊藤博文、井上馨などに贔屓された人気芸者になったとか。

で、我が歳三。 彼と女のことは言いたくないのでパス(笑)
では卑怯なので、軽く触れよう。
江戸にいた頃。
確証はないのだけれど、吉原火炎玉屋の黛太夫が馴染み。美人と言うより凄みのある女だったとか。
また、三味線屋の娘・琴さんは、(取りあえず(笑))許嫁でした。
京都時代。彼の書いた手紙にはこう残っています。
「島原では花君太夫、他に天神、一元。祇園には芸妓が3人ほど。北野には君菊、小楽。新町には若鶴太夫、他2〜3人。北之新地には沢山いすぎて書ききれない」

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で、君鶴(上の手紙の中の君菊と言われる)との間には女の子が生まれたという話がある。でもその子は幼いウチに死んでしまった。
君鶴は歳三と別れたあと、他の男の元へ嫁いで、早死にしたらしい。
なんちゅう馬鹿な女だ。あたしだったら絶対他の男のとこになんか行かないぞ(行けないという説もある(^^;))
土方歳三ほどの男の愛人だったという誇りはお前にはないのか!馬鹿やろー。
子供が生まれたっちゅうことは、歳三と×××××(今更伏せ字かい)だろうがっ!
そういうありがたい身体を、何故死ぬまで大切に出来ないんだ!
食って行けなくなったのなら、ありがたいお身体のまま死ねばよいのだ。
他の男に差し出すとは不届き千万!
なんちゅうもったいねぇことをするんだ!歳三を汚す気か!!
だから早死にするんだ。おひおひ(^^;)

ちょっとキレてきたので、歳三編はやめます。

次、沖田。
彼は、松本先生(良順。将軍侍医。新選組の担当医でもあった)によると「清童(童貞)」。
おいおいおいおいおい。これは信じられないぞ??
沖田は歳三達と一緒に、妓買ってるんだぜ。
 ★文久3年(1863)4月22日★
  《歳三、井上松五郎、源三郎、沖田と共に、新町の廓九軒町吉田屋にて天神(遊女)を買う。》
この日記は一緒に妓を買った松五郎が書いたものなんだぞ。
沖田には、歳三と同じように子供もいたという説すらあるんだぜ。

沖田は試衛館にいたころ、そこにいたお手伝いの娘に(これが結構気の強い娘だったらしい)「好きです。結婚してください」と言われたが、「私はまだ修行中の身ですから」と断った。したら女は誇りを傷つけられた、と短刀で喉を刺して自害しようとした。急所を外れていたので一命はとりとめ、後、勇先生の介添えで他家に嫁いでいったそうな。
隅に置けぬのう、沖田君。
京都時代の沖田の恋人はいろいろ言われていますな。医者の娘なんてのはよく言われていること。
勇先生が無理矢理別れさせたとのことで、「あの陽気な沖田先生も、あの娘のこととなると涙をこぼして語っていたものです」なんて話も残っている。
かと言えば、上にも書いたが、どこぞの後家(だったと思う)との間に娘がいた、なんて話もあったし、油小路の旅館里茂の娘との仲も有名ですね。どれが本当かはわかりませんが。

そいから、左之は現地(京都)で嫁をもらってる。おまさという人で、新選組幹部の女にしては珍しく、気質(カタギ)のひと。

新八の嫁はお約束通り芸者上がり(これが普通)。どっちも子供もいた。

私の烝にも、嫁がいたらしいし……(泣)信じたくないよぅ(泣)

山南さんは、明里という妓と深い仲だったというが、この明里、実在かどうか疑わしい。
ちなみに、慶応三年の京坂の遊女の名簿を見ても、「明里」という名はどこにもない。
もっとも、山南さんが亡くなったあと、誰かに落籍れたのかもしれないけれど。

斎藤さんは、後、時尾さんと結婚しましたが、京都時代の馴染みは、桔梗屋の相生太夫。

伊東甲子太郎も、うめという夫人がいたが離婚(理由は、隊士人名辞典の伊東の項を見てね)。
京都での敵娼は、輪違屋の花香太夫。

この頃の女達は、大変だったろうな。愛する人は明日をもしれぬ身。それだけに、逢えるときは全身全霊をかけて、尽くしたんだろう。
殆どが哀しい別れに終わってしまってはいるけれど、私はこの頃の女達がちょっと羨ましかったりするのです。


















★歳三枕を投げる★

★慶応4年(1868)閏4月★
宇都宮で足指(と言われているが、腕という噂も)を負傷した歳三は、5月から7月までの約三ヶ月間、会津若松城下の宿で病床に伏していた。
ある日、同じ宿にいる幕臣で文官の望月を呼びつけ、「俺の隊で戦え」と高ピーに言ってみた歳三(笑)
病気で動けなくて、むしゃくしゃしてたんでしょうねぇ。可愛いん(*^^*)
で、その言いように、むっときた当然望月は拒絶。『自分は文官ですから』とね。
すると歳三ってば、
『じゃあ、何しにこんな遠くまで来たんだ、卑怯者め。俺に従って、戦闘というものを学んでみろ』ってなことを言ったらしい(笑)
んもう、可愛いったらありゃしない!歳ちゃんってばっ!(*^^*)
しかし望月も黙ってはいない(笑)
『私を卑怯者と言うが、君の宇都宮でのあのザマは何だ。あそこはいわば天王山だろう。それをたったの四日間で奪還されたじゃないか。再度奪還できない君も卑怯者だ』
(注:ちなみに、歳三は奇跡的な戦略で宇都宮城を落とし、敵にも絶賛されたのだが、その後、歳三が留守の間(と、言っても戦闘には間に合ったのだが)にまた敵に奪還されてしまった。勿論、これは歳三の責任ではない)
で、望月にそう言われた歳三、『俺の病床を汚すな。さっさと出て行け』って枕を投げたと言うんですねぇ。可愛いっ(*^^*)(おひおひ)
自分で呼びつけておいて、癇癪を起こして枕を投げる、とは困った病人ですが(笑)なんだか、多摩の頃の人間らしいやんちゃな歳三を垣間見たようで、思わず微笑ましくなってしまうエピソードですね。いえ、歳三の気持ちを思うと、微笑ましい、なんて言うのは申し訳ないんだけれど、こんなところも、私が歳三を愛しちゃってる一因なんですよねぇ。



















★大焚き火★

★文久3年(1863)2月10日★
《芹沢鴨本庄宿にて、民家を壊し道路で大焚火》

京都や将軍(幕府)を守るため、浪人達が約230名ほど集められて、京都にぞろぞろと行くことになった。
首脳は清河八郎。この男、結局は幕府を騙したことになる。将軍を守るなんて名目は嘘だったのね。
で、京都に着いてから清河と意見が分かれた、この集団の中の13人(一説には24人)が、後の新選組になるわけ。

で、この集団、2月8日に江戸を立ちます。
後の新選組の幹部、近藤勇や土方歳三、沖田総司、永倉新八、原田左之助なんかも勿論この中にいたわけです。勇先生の道場「試衛館」の人間としてね。勇先生は、天然理心流という剣の流派の4代目宗家でした。
ちなみにこの中には斎藤さんはいません。京都に着いてから、一緒になったんですね。

その勇先生が、出立にあたって「先番宿割り」の役を命じられます。
要は、みんなより一足先に行って、宿の手配や、部屋割りをする。いわゆる卑役なわけ。
我らが近藤さんになんちゅう役を!と、試衛館の連中は怒ったんだけど、勇先生本人がこれを引き受けちゃった。根が真面目で人がいいからねぇ・・・・・。

実は清河が、試衛館の連中が只者ではないのを恐れて、親玉の勇先生を、みんなと引き離した、とする説が有力。
「あの連中(試衛館の面々のこと)、道中何かあったら斬ってしまえ」と言っていたそうだから。
で、冒頭の焚火の話。

2日目の本庄宿。
ここでなんと、勇先生が芹沢鴨の部屋を取り忘れる、という事件が起きた。
芹沢鴨といえば乱暴者で有名。鹿島神社の太鼓をうるさいと鉄扇で打ち破ったり、気に入らない部下を3人並べて座らせておいて、刀を一薙ぎ。
一度で3人の首を落としたり、なんてことをやった人。

この人が、『自分の泊まる所がないなら、外で寝ようじゃないか。ただし寒いから焚火をするぞ』と、大焚火を始めてしまった。
火の粉が宿場町の家々の屋根にふりかかって大騒ぎになったのね。
この時、勇先生は地面に座り、手をついて謝った、というエピソ−ドがある。この勇先生の潔い態度は、かえって「近藤は大物」というイメ−ジを皆に与えたらしい。
この件、清河の差し金かなあ、と思って見ると面白い。(私は、清河には「やっかみ」があったと推測しているので……)
だって、勇先生は、一人で宿割りをやっていたわけじゃないのよ。もう一人手伝ってた男がいた。なのに、芹沢に謝ったのは勇先生だけで、何故かその男は謝っていない。そんなエピソードはない。
実は、この池田という男、本当に清河の腹心だったのよ。

ただね。
あまりにも有名なこの事件、本当にあったことなのか証拠はない。
けど、翌11日、浪士達に書き付けが(回状、回覧ですな)回っている。
内容はわからない。で、四日後の15日、今度は「火の用心」の回状が、出されている。この辺が、事件の根拠と言えば根拠。