★局内の男色★

新選組内での男色というと、「ああ、惣三郎でしょ」って言う人が多い。
あれは、小説だから架空の話なのに、ごっちゃにしている人が結構いる。

史実では、元治元年(1864)5月20日の勇先生の書簡にみえる。
「当節婦人戯れ候事 いささかもこれ無く局中頻に男色流行仕り候」

誰と誰、っていうのは、武田が馬越を追いかけていたのがそうじゃないか、と言われているのみで確たるカップルの名は出ていない。
(もっとも、五番隊武田センセは男色家と言われているが、証拠はない)

私が調べたところだと、どうも、勇先生の養子の周平がそうではないか、と思えるふしがある。
相手の男と、まるで夫婦のようだったのではないか、と。(あ、相手は勇先生ではないですよ(笑))
相手の名字はわかっているので、調査してみたいですね。
しかし、『妓と遊ぶことがいささかもない』、ってのも凄いですねぇ(笑)






















★見廻組とのこと★

新選組とよきライバルだった見廻組。会津藩旗本の次男坊以下で結成された集団で、京都市内を新選組と(所司代と)分担して見回っていた。
片やおぼっちゃま風エリート軍団、片や烏合の衆とは言え実力者集団。平隊士レベルでは、ライバル意識むき出しで衝突することもあったが、幹部レベルでは非常に結束していて仲が良かったようだ。勇先生や歳三と見廻組頭取の佐々木只三郎様などは、一緒に妓を買いに行ったりする仲であった(笑)(「幹部と女性達」の項参照)

慶応2年9月14日。
当時見廻組は150人程だったが、中堅幹部の大沢源次郎が薩摩論客を手紙をやりとりした、という嫌疑を受けていた。
(他に、頭取の佐々木さんと反りが合わず、40人ほどを率いて、大徳寺に立てこもってしまったという説も?)
奉行から命を受けた渋沢栄一(そう、あの渋沢栄一です。当時は一橋家臣で、渋谷篤太夫と名乗っていた)は、新選組に手伝って貰い、大沢を(江戸へ護送するために)捕まえることになった。
大沢のいる大徳寺に近い鰻屋の二階で、渋沢と歳三と他二人(永倉と沖田?)が待ち合わせをした。
ここで、渋沢と新選組が少し激論を戦わせたらしい。
新選組側は、「まず、自分らが行って捕まえてくる」と言い、渋沢は「自分が命を受けたのだから自分が行く」と言う。話は武士の面体にまで及ぶのだが、この間、歳三はほとんど黙って聞いていたらしい。やがて、刀を掴んで新選組側(永倉と沖田?)が息巻いたときに、歳三がそれをとどめ、渋沢の意見を通したという。
この件に関しては、渋沢(とその娘)によって、かなり詳細なやりとりの記録が残されている。
新選組は、意外な事件で、渋沢栄一と接点を持っていた。