★武田観柳斎<五番隊隊長>


?〜慶応3年(1867)6月22日/?才
出雲国母里(島根県能義郡)出身
北辰一刀流

出雲母里藩の医者であった武田は、甲州流兵法に通じた兵学者であった。慶応三年頃に洋式の調練が始まるまでは、武田の知識は隊にとって重要で、新選組の軍師として羽振りを利かしていた時期もある。
武田の特技は他に、弁舌巧みなところである。局長の勇に取り入るためにおべっかをつかい、媚びへつらうことが多く、この武田を嫌っていた隊士も多かったらしい。
やがて、隊の中で自分の存在価値がなくなってきたと気づくと、すでに分離していた伊東の方へ身を寄せようとする。が、伊東には拒絶されてしまう。次に武田は、薩摩藩に取り入ろうと奔走し出す。これは完全な裏切りである。これを知った近藤・土方は、竹田街道銭取橋で、斎藤、篠原らに武田を斬殺させた。

◆観柳斎あれこれ◆