一つの例としての詳細
質問前にお読みください。

例:『新選組史跡にノートを置く。』


この行為に反対する私たちの意見に対して、
   「自分はこう書いているのにどこがいけないのか」
   「こういう場合はいけなくて、何故こういうケースならいいのか」
などと、細かいレベルであれこれ言う人が、時々います。

私たちが言いたいのは、こういう細かいレベルのことではありません。
大事なのは「新選組ファン(複数ひとまとめ)の行為として、それが一般社会からどう見られているか」ということです。

これは、見栄を張っているのでも、社会におもねっているのでもありません。私たちファンの行為が、そのまま新選組への評価に繋がっていく可能性があることを気遣ってのことです。

細かいことを言い出したら、キリがないのです。
例えば、『故人の霊が眠る墓の前に、ファンの交流としてのノートを置く』ことは「×」ですが、『参拝者の記録として、名刺受け代わりのノート(記帳用具)に書く。』ことは「○」でしょう。
ただし、参拝の記帳というものは、住所氏名のみを記録するのが常識であって、これに漫画や余計なことを書くものではありません。もし書いたら、記帳とは言え「×」でしょう。そして、普通、こういうものは、お寺さん側で用意するものです。

このように、ケースによって「○」「×」が変化してくる細かいことを、いちいち、「私はこうやっているのに、何故いけないのだ」とか「でも、こうやっている人はいる」とか「じゃあ、こういう場合はどうなんだ」とか「この部分はおかしい」などと、言う人がいますが、はっきり言って、それくらいの判断は各自が勝手にやってくれ、と言いたいのです。ケースバイケース、「○」と「×」は、事例の数だけあるのですから。
「自分勝手な自己中心的・自己満足的ファン」に、この些細なレベルにこだわっている人が多く見られますが、こんなレベルで、揚げ足を取るように話し合うのは、子供じみた不毛な行為で、意味のないことです。キリがありません。こういうレベルがミーハーだと言うんです。
自分レベルの「○」「×」論ではなく、最終的な判断をするために、考えるべき大事な手段はもっと別にあります。

私もノートに書く人は100人が100人、ミーハーだとは思っていません。
が、悲しいかな、一般的社会の評価というのは、その区別をしてくれないのです。
その区別をしない社会の目は、ノートの存在を決して好意的には見ていません。
ファン一人一人の細かい思惑など理解して貰えない一般社会の大きな目で見られると、現状の「墓ノート」は、結果的には、新選組の評価を誤解させる事に繋がるものであると、私は思っています。

森の中の一本の木の立場(言い分)と、外から見た森全体の評価は違います。
「新選組&そのファン」という森を、外部(=一般社会)から評価されるとき、一本の木(=自分)の目線・立場で主張しても、外にはなかなか届かないものです。
自分の立場ではなく、外部と同じ目線・立場で森を見ることで初めて、その評価に対して対等に立ち向うことが出来るのではないでしょうか。

「自分の中の正義の主張」
これは、自分の弁護をしているだけの、「木を見て森を見ず」、のいい例です。「私はこうしている」と言う前に、一般社会から(ノート全体が)どう見られているのか、を考えてください。自分の思いや行為が、どう社会に伝わっているのか、受け入れられているのか、を知ろうとする意識と経験をもっと持って欲しいと思います。

それから、新選組ファンである前に、日本人の一般常識として、「お墓」というものがどういうものか、考えてみてください。
他人様のお墓に「ファン交流のために」、つまり自分たちの楽しみのためにノートを置くという、自分勝手で自己満足にしか過ぎない(故人やその遺族に対して思いやりのない)その態度が、常識のある一般の人から見て、非常識呼ばわりされるのは当然のことなのです。
お墓というのは、故人が眠る場所です。ファン交流をしたりコスプレをしたりする場所ではありません。自己満足のため使うものではありません。常識です。

繰り返しますが、私たちは、細かいことをあれこれ議論したいわけではありません。
私たちの意見を読んで「あぁ、そうか。確かにそうですね」と気づいてくださる方が一人でも増えてくださることを期待しているだけなのです。
これに気づこうとしない、或いは反対する人と戦いたいわけではありません。
大事なのは、個人レベル・自分レベルの細かいことではなく、一般常識として、結局それをどう判断しどう行動するのか、という「結果」です。結果に至るまでの過程は、それぞれの自由です。「秋嵐」のメンバー同士ですら、細かい話に至ると、人によって許せること、許せないことが違っているのですから。
けれど、細かい過程が違っても、行き着く結果は同じです。それは、「自分の正義」ではなく、「一般社会の常識」から結論を判断しているからです。
結果を出すのにただ必要なのは、

「TPOをわきまえ、史実を意識し、社会から誤解されないように、歳三さんたちを思いやっているか」

これだけです。常識があれば誰でも判断できる、これだけのことです。
このことさえ、はずしていなければ、あとはどうしようと、どうやろうと、自由でしょう。それを私は言いたいのです。
そして自分の常識が一般の常識とずれていないかを確認するために、多くの人の意見を聞いてみることが大事だと思うのです。

(文責・土方ゆうと)