大河ドラマ「新選組!」/ゆうとのコラム
(5月放送分)


第17回放送(5月2日)「はじまりの死」
5月はコラムお休みです

多忙なため(引っ越し)コラムは基本的にお休みします。
今回の放送は、一部だけちらちらと見れたのでその範囲内でちょこっとだけ。

「憎まれ役はすべて俺が引き受ける」
歳三がこう宣言してくれたこと、(ドラマとしては)とても嬉しかったですね^^
歳三の一番誤解されやすい部分でもあるわけですから。
本人の言葉で本人がしっかりと、ああして声に出してみんなの前で宣言してくれたことで、少なくとも三谷新選組の仲間達は歳三の苦悩を理解してくれるのだろうな、とちょっとほっとしたりして。
男が口に出して言うことは何より強い。
実際はどうだったかはともかく(私は歳三に「こうあってほしい」という理想的イメージはあまり持ってないというか持たないようにしています。自分の理想より本当の彼がどうだったかの方が大事ですから)、ドラマの中では非常に効果的で強い意志を感じた台詞でした。三谷さん、ありがとう^^

それから殿内さん。
史実では、犯人は壬生に残った誰かにほぼ間違いないという噂があったこの事件。(定説では近藤や芹沢らと言われてはいる)
ドラマではおそらく芹沢一派による殺害となるのだろうなぁ、となんとなく予想はしていたものの、芹沢の誤解によるものとは思わなかった。史実を歪めない範囲の、素晴らしい構成だったと思います。
殿内さんがいい人だっただけに本当に切なかったけれど、鴨さんが「悪人」として描かれなかったのは個人的には嬉しかったですね。


第18回放送(5月9日)「初出動! 壬生浪士」
久しぶりに本放送見れました

《このサイトに於ける「史実」とは、明らかに漫画や小説などでの創作とは思われない範囲を指します。
つまり、「史実である可能性を秘めたもの」という意味であって、「敢然たる事実」という意味ではありません。》

このサイトで遊んでくださっている方は必ず目を通しているはずのこの一文。
自分で書いたものではありますが、改めて最近「史実を語る」難しさをしみじみと感じています。

歴史上、「これが史実!」と言えることは殆どないと言っても過言ではないと思うんですよね。
上の一文にもありますように、殆どは「史実である可能性を秘めたもの」でしかないわけです。
芹沢とお梅の出会いだって、史実は謎です。代金の取り立てだの、無理矢理だの、という説は確かにありますが、それが「事実」とは断言できません。
殿内が殺された理由も、芹沢派と近藤派の関係も、あくまでも今出ている説の殆どは「史実である可能性を秘めたもの」にしか過ぎない。
「これは紛れもない事実」と言えることがいかに少ないか、そして「創られた」説がいかに多いかを、今更ながらしみじみと痛感しています。これからもこれを「痛感」し、注意しながら新選組を語っていきたいと思いますね。

ということで、大河ドラマ「新選組!」のお話。
斎藤さんが相撲に参加するとは思わなかった(笑)すがるような目で左之助に代わって欲しいと哀願するとも思わなかった(笑)
普通、ああいうキャラの斎藤だったら、親睦を深める相撲大会と聞くだけでどこかに出かけて行ってしまいそうなものなのに。
あの場にいただけでも驚きなのに、参加して、勝って、あの笑顔。「普通だったら……」を見事に覆してくれて、なんだか爽快感すら覚えました。
勇の結婚式の時の「おめでとうございます」で、まさか、とは思ったけどやっぱり愛すべきキャラに育ってましたねぇ。
ああいう風に描かれたら憎めませんよ〜、誰だって^^三谷さんならでは、でしょうねぇ。
そして、新選組の面々一人一人をああやって、視聴者に愛しみを抱かせるように描いてくださることに、心から感謝したいと思います。
もう脚本はかなり書き上がったこととは思いますが、これからの厳しい展開をどういう形で見せてくださるのか、少し緊張しつつも楽しみにしていたいです。

それから、ちょっと考えたこと。
「点」と「面」について。
「そのこと」そのものだけを見て判断するか、全体を見て「そのこと」を判断するか。
人間の考え方って大きく分けるとこの二つ。(勿論、例外も沢山あるが)。
私の経験から行くと、世の中には「点」単位で考える人の方が多い気がする。

すごく飛んじゃう例えだけれど、例えば死刑制度。
「死刑」を反対している人は「点」で見ている人が多い。確かに「死刑」なんて残酷そのもの。人権もなにもない。
けれども、もともと「死刑」って何?個人が禁じられた仇討ちを国家が代わってやってくれるもの。「死刑が残酷というのなら、死刑になるような罪を犯さなければ済むこと」じゃないのかしら?「面」で見るというのはこういうこと。
その「問題部分」だけではなく、もっと大きい範囲で物事を見るということ。
ただし、どちらがいい、ということでは決してない。どちらも間違ってはいない。
(死刑制度の問題は、冤罪問題も絡むから、一概にどちらが良い、とは言える問題ではないし。)

もっと小さいことで言えば、うちの掲示板(笑)
「なんでこの書き込みがいけないんだ」「これくらい、いいじゃないか」「こんなことが削除対象なのか」。
「点」で見る人はそう言う。そうですよねぇ。確かに。「これくらい、いいじゃない」と私も思う。「点」で見るならば。
けれども「掲示板」ひいては「サイト」という「面」で見ると、そうはいかない。「点」で見れば全然たいしたことでもない小さなひび割れでも、それを放置しておくことで、そこがどんどん広がって全体が壊れてしまうこともある。間違いなく広がらないひび割れならば、放置しておいても構わないものもある。全体からそれを推し量ってみる。「面」で見るというのは、こういうこと。

確かに「点」で考える人というのは、一つ一つを大事にしていると思う。優しい人だと思う。
逆に「面」で考える人というのは、細かい部分を犠牲にしなければならないこともある。せっかくの投稿を削除された人の気持ちを考えれば確かに申し訳ない。しかしこれは「面」で行くが故のある種の犠牲。「点」で考える人なら、まず生むことのない犠牲だと思う。
それだけに「面」で考える人は「点」で考える人に批判されることがしばしばある。確かに「犠牲」を生んでいるのは事実だから、それも致し方ないのかも知れない。

しかし「面」者には、「面」者の目標や思いがあるのだ。目指すものがあるのだ。「点」で対処していては追いつかない広く大きなものを抱えているのだ。小さく終わりたくないのだ。
犠牲は承知。それ以上に、やり遂げなければならないものがあるのだ。

「点」で見る人を間違っているとは思わない。そんなこと、微塵も思っていない。
けれども、「面」で見るやり方もあるのだ、ということだけは理解して欲しいと思うのである。
犠牲を生むことの少ない「点」者にはなかなかわかって貰えないかもしれないけれど、犠牲を生む分、「点」者には創ることの出来ない大きなものを創れる「面」者の存在も少しは認めて欲しいのである。
ドラマの中の勇は(今のところまでは)間違いなく「点」。
しかし歳三は、史実の歳三も含めて、確実に「面」で物事を見る人だったと私は思っているから。