佐々木只三郎

──ゆうとのお気に入りイイ男人物伝──


1834(天保4年)〜1868年(慶応4年)
会津藩士佐々木源八の三男として会津で生まれる
長兄は、会津公用人の手代木直右衛門

佐々木只三郎は、龍馬暗殺者の候補の一人にあげられているが、その真相はまだ、謎である。
「武骨で、真面目で、男の可愛さがある」。私は、只三郎をそんな風に見ている。
ちょうど、近藤勇とよく似ているのかも知れない。外見も、色浅黒く、笑うと両頬にエクボができたというところも、勇と同じ。
勇も、女にしてみれば、どこか放っておけないようなところがあったらしく、幕末当時、歳三と同じくらい女性にモテたという。
只三郎には、あまり、女性との華やかな話は残っていないけれど、(馴染みの太夫の名はわかっているが)きっと、女性にモテたことだろう。

只三郎は、青年時代、「会津五流」と総称される剣の流派の一つである、「精武流」を、藩の師範役羽嶋源太に学び、奥義を極めている。また、沖津庄之助に従って槍術を学んだ。
「小太刀をとっては日本一」とも言われ、20才前には、師の羽嶋をも凌いだとも言う。
また、歌人としても知られた鈴木大之進について和歌も学んだ。文武の人でもある。

万延元年(1860)只三郎は、江戸に出府。佐々木家の親戚に当たる旗本、佐々木矢太夫に養子入りし、その家督を継いで浅草堂前の組屋敷に居住した。

彼が歴史に名を刻み始めるのは、文久三年の頃からだろう。
将軍警護のため幕府が募集し、京を目指すことになった、浪士隊(勇や歳三もこの中にいた)を監督すべき立場の、取締並出役の一人に選ばれたのである。
(そう、彼は、勇や歳三と共に、京へ旅をしているのだ(^^))
京に着くと清河は寝返り、勇や歳三ら一部を残して、浪士隊は江戸に戻る。その時、只三郎は、清河らと共に江戸に戻るのだが、その後まもなく、麻布一の橋で清河を殺害した。
新選組が会津の預かりになった経緯については諸説あるが、只三郎が実兄の直右衛門に口を利いた、という話も、説として、ある。

その後、再度京に上った只三郎は、見廻組の与頭に抜擢。
見廻組というのは、新選組とよく似た役割を持つ。ただ、新選組が、出自は問わない代わりに腕自慢を集めたのに対し、見廻組は、旗本の次男、三男を集めた、いわばエリート集団である。
腕と、出自と。
平隊士レベルではいろいろ衝突もあったようだが、歳三や只三郎ら幹部レベルになると、共に遊郭に上がるくらいの親交があった。
ただ、見廻組の、目立った活躍の記録は、全くと言っていいほど、少ない。更に、新選組のように「屯所」というべき場所もなかったところをみると、集団での仕事、ということはしていなかったのかもしれない。


只三郎の京都での私邸は、二条城の北、新出水知恵光院西入の松林寺(安寺)。ここに妻と暮らしていたようだ。(一子、高は京で生まれている)
ちなみに、この松林寺は、黒谷(金戒光明寺)(会津藩の最初の京都本陣)の末寺なので、只三郎がここを宿舎としたらしい。
この頃の只三郎は、禄を千石受けていて、大和守に任じられていたともいうから、相当羽振りが良かったらしい。兄の直右衛門の家を訪ねるときも、いつも馬に乗ってきて、従者を数人従えていた。

只三郎の容貌や人となりについて

「中肉中背のがっしりした体格、顔の色は浅黒く、笑うとエクボがあって、可愛らしい顔になった」(只三郎の姪の話)
(どうしても、勇と似ているような気がするのは、私だけだろうか?)
「至ってさっぱりとした、くちゃくちゃしたことの嫌いな淡泊な人で、一面非常に我慢強いところがあった。また、頗る無頓着で、例えば、兄の家に来ても、その甥と姪が何人いるのかも、その名前がどういうのかも、そんなことすら知らず、寒いときでも単衣を平気で着ているような人だった。ただ、心を止めるところは、勤め向き(仕事)のことと和歌のことであったと言われている」
プライベートな細かいことはぐずぐず言わず、男として大事な仕事と、自分の思いを表現できる和歌にだけ、心を止めた、という彼に、私は、男らしいものを感じてしまうのである。その、彼の和歌を紹介する。
私はこの和歌を読んで、彼をとても尊敬し、好きになった。


くちはてて かばねの上に草むさば 我が大君の駒にかはまし

千万(ちよろづ)のあだ(敵)も草木と散りぬらん君の一刃の露とふりなば

先がけて折れし忠義のふた柱 くづれんとせし軒を支へて

弓馬も剣も鉾も知らずとも 恥をだに知れ 武士(もののふ)の友

この気持ちは、新選組を始め、当時の幕府側の人たちの共通の思いであったかもしれない。この歌を読み返すたび、いつも私は目頭が熱くなる。
「哀れ」という言葉で表すのは、只三郎に対し不敬でもあり、不遜でもあるのだけれど、やはり、哀れを感じる。そして余りにも無垢な忠義はそのまま、不器用で、素直で、一途で、まっすぐな、人となりを感じさせる。たまらなく愛しく感じる。そして、信頼できる人だと感じる。新選組も同じだ。
こういう人は、新政府軍にはなかなか見られないかも知れない、とも思う。

慶応4年1月6日、八幡の堤で戦っていた(鳥羽伏見の戦い)只三郎は、腰に被弾、紀州に運ばれたが、12日に亡くなった。遺体は、紀三井寺山腹に葬られたが、近年、会津に改装された。
戒名は「賢浄院殿義岳亮雄居士」。
鳥羽伏見の戦いで、甲冑を脱いで半裸になり、斬り込みをかけていた彼は、近くの酒屋に飛び込んで酒を出させ、代金代わりに襖にこう、書き付けた。

世はなべてうつろふ霜にときめきぬ こころづくしのしら菊のはな

戦いのさなかに、これ程の美しくも悲壮感漂う歌を詠んだ彼。これが事実上の辞世になったという。


(写真提供:新選組百科事典関西特派員の、いばちゃん(^^)(あおちゃーん)。
いくら只サマが好きな私でも、この、紀州山中のお墓までは、行けないと思うわ。(会津のお墓には、何度も行ったけれど……)
とても貴重な写真を、どうもありがとう>いばちゃん)

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