文久3年(1863) 無断引用・複製は固くお断りいたします。

日付新暦天気出来事
1.15( 3. 4) 歳三、小野路の小島家から刀剣一振り借用する
1.16( 3. 5) 勇、小島家より鎖衣を借用する
2. 4( 3.22) 江戸小石川傳通院付属大信寮において浪士会合す
2. 5( 3.23) 夜、傳通院で諸注意を受けると共に、浪士組編成完了.近藤は池田徳太郎、佐々木如水と共に先番宿割係。三番新見組に井上、沖田林太郎、六番芹沢組に山南、土方、沖田、永倉、藤堂、原田、平間、平山、野口ら
2. 7( 3.25)雨後晴 勇、歳三、馬場、中村、井上らが出発を翌日に控え、近藤周助の家に集まる。
2. 8( 3.26)雨天清河八郎以下浪士組総員朝五ツ半に傳通院を出立中山道を京に向かう。この日行程七里で大宮泊
2.10( 3.28)天気本庄に泊まるも、先番宿割の近藤勇ら、芹沢鴨組の宿を取り忘れる芹沢は激怒して道路で大焚火
2.17( 4. 4) この日、馬篭の宿を通過して中津川泊まりとなるが、芹沢鴨三番小頭を罷免され後任に石坂が廻り六番組に、三番小頭に近藤勇が当たり、隊士らは六番組から移る
2.19( 4. 6) 芹沢鴨、取締役に任じられる.土方、沖田らの六番組小頭に西恭助が任じられ、勇は先番宿割に復す
2.23( 4.10) 夜明けと共に大津を出立して朝四ツ(10時)京に入る。新見組は雀塚の更雀寺宿泊、土方、沖田らは八木源之丞宅に入る。新徳寺本堂において清河八郎演説する
2.28( 4.15) 西恭助六番組を罷免され、勇が小頭に再任
2.29( 4.16) 午前中勇組御所拝観.午後は井上ら新見組が拝観す
3. 4( 4.21)天気将軍家茂入洛.井上松五郎将軍警護として随行入洛す。この頃、斎藤一ら浪士組に加わる
3. 6( 4.23)天気井上松五郎、壬生の浪士組を訪ねて懇談する
3. 8( 4.25)天気家里次郎と殿内義雄の両人、京都残留希望者を募る事を鵜殿鳩翁より命じられる
3.10( 4.27) 老中板倉勝静は京都守護職松平容保の浪士差配の命下す。芹沢、近藤ら京都残留の嘆願書を京都守護職へ提出
3.12( 4.29) 芹沢、近藤ら京都守護職御預かりとなる
3.13( 4.30)曇後降清河八郎ら京都を出発し東帰.近藤、土方、井上、松五郎を訪ね酒宴
3.15( 5. 2) 芹沢、近藤ら守護職邸に挨拶に行くも不在.公用方と面会
3.16( 5. 3)天気芹沢、近藤ら京都守護職松平肥後守容保に拝謁
3.19( 5. 6)天気歳三、四条南座で井上兄弟と芝居見物後、酒宴
3.24( 5.11)雨後晴近藤、沖田、四条大橋で殿内義雄を斬る
3.25( 5.12)天気会津藩士本多四郎ら6名が壬生を訪れ面談、皆で壬生狂言を見物
3.26( 5.13)天気近藤勇、郷里へ「志大略相認書」を認める. 歳三は小島鹿之助、橋本道助宛に手紙を書く(委細ハ近藤より奉申上候・・・)
4. 2( 5.19)曇朝雨大坂平野屋へ野口、沖田、永倉らと出向き、100両押借り。近藤らと松五郎に会う。夜帰京
4. 6( 5.23)雨天阿比留鋭三郎最初の犠牲者となって殺害される(病没?)
4. 8( 5.25)天気八木家の童女の葬儀に近藤、芹沢ら参列する。歳三、源三郎両人、井上松五郎の旅宿を訪問す
4.10( 5.27)曇り再び源三郎と松五郎方を訪れ、芹沢のことをグチる
4.13( 5.30) 清河八郎、江戸赤羽橋で殺害される
4.17( 6. 3)曇後降早朝、松五郎の訪問を受け、歳三、井上、沖田、山南、斎藤、朝から田中茶屋で酒宴。天狗になった近藤のことをグチる
4.20( 6. 6) 歳三、井上両人、松五郎を訪ね浪士組問題を相談す
4.21( 6. 7)天気家茂摂海巡視のため下坂、近藤らは警護を務め、大坂八軒家の船宿京屋忠平衛方に滞陣
4.22( 6. 8)天気井上松五郎、京屋に土方、源三郎を訪ね、沖田と共に昼から新町の廓(九軒町吉田屋)に登り、遊女(天神)を買う
4.24( 6.10)天気家里次郎大坂にて詰腹を切らされる
4.  大坂鴻池善右衛門に強談し、200両借用して制服を仕立てる
5.11( 6.26) 家茂巡視を終え浪士組の警護で上洛
5.22( 7. 7)天気沖田、井上両人、井上松五郎を訪ねる
6. 2( 7.17)午後雨歳三、雨の中守護職邸に出向き、帰途井上松五郎を訪ねる
6. 3( 7.18)雨天歳三、松五郎を訪ねるも会ってもらえず。芹沢、山南、永倉、沖田ら8名、淀川で船涼みの帰り、力士と口論の末乱闘、近藤はこの一件を大坂西町奉行松平大隅守へ無礼討ちとして届け出る.公事方与力内山彦次郎はその原因を追究
6. 4( 7.19)天気将軍家茂の下坂に従い大坂城まで警護京屋に泊まる
6.10( 7.25)天気将軍家茂の帰東に従って警護に当たる松五郎に、近藤、土方酒を贈って送別の宴を張る
6.13( 7.28) 家茂、軍艦にて東帰のため天保山沖まで警護、その後京屋に帰陣の後帰途に就く
6.29( 8.13) 浪士石塚岩雄、壬生浪士を騙って商家に押し入り、借財を強要する
6.  芹沢、永倉、沖田ら20名ばかり京相撲の勇川力蔵に桂川の川狩に招待される
6.末  水口藩公用方、浪士組を批判する。一度は謝罪文を出す(永倉ら受け取る)。翌日、水口藩公用方友人戸田栄之助、浪士組屯所を訪ねて謝罪文の返済を嘆願す。翌日、水口藩陳謝和解のため島原の角屋に浪士組一同を招待、謝罪文の返済なる。この頃、芹沢鴨乱暴のあげく角屋に対し7日間の営業停止を言い渡す。日付不祥ながらも芹沢、近藤ら大坂巡羅のため下坂
7. 2( 8.15) 壬生浪士を騙った石塚岩雄を大坂難波橋に梟首
7. 4( 8.17)天気芹沢、近藤両人、大坂鴻池より30両借財す
7.  歳三、新町吉田屋で遊女・小虎大夫の髪を切る
7.  歳三、浪士を斬った山南の刀を押型にして武州に送る
8.初  千本通朱雀野で佐々木愛次郎殺害される
8. 7( 9.19) 八坂神社境内の北側で一週間の相撲興行を主催。『優しい新選組』をアピールする。《壬生の浪人多数集まり、取締致し候。いずれも木綿黒紋付き、白?袴を着し、殊の外行儀よろしく御座候》
8.10( 9.22) 佐伯又三郎、島原で斬殺される
8.11( 9.23) 壬生新徳寺の池を掘り魚をすくって食べる
8.13( 9.25) 今度は壬生で相撲興行を打つ。穏健に近所の人と馴染んでいき、この日の興行も成功裡に終わらせた近藤派に対して業を煮やした芹沢派が、金談を申し込んで拒絶された大和屋庄兵衛の土蔵に発砲,、焼き打ちにする
8.18( 9.30) 8.18の政変勃発し、御所禁門警備を分担する(隊士52名出動)。この日、武家伝奏より《新選組》の命名と共に市中取締りの命を受ける
8.21(10. 3) 三条木屋町へ桂小五郎を捕縛に向かうが不在.従者2名を捕らえる
8.23(10. 5) 歳三ら新選組、木屋町二条下ル山中成太郎宅に平野次郎国臣を襲撃するが失敗
8.24(10. 6) 古東領左衛門方に潜伏する平野を急襲するも再び失敗し、古東を捕縛
9. 7(10.19) 新見錦祇園『山の緒』にて、土方、沖田らに切腹させられる
9.13(10.25) 田中伊織を斬殺
9.18(10.30) 島原の角屋で会合を開く。同夜、八木邸にて酔眠中の芹沢、平山、平間を奇襲し、芹沢、平山を斬殺、平間は逃走
9.19(10.31) 芹沢葬儀
9.23(11. 4) 会津藩重役広沢富次郎、大野英馬の名で、近藤の養父周斉の病気見舞いの帰省が不可能との謝文を発送
9.25(11. 6) 8.18の政変時の功労によって朝廷から下賜金を拝領す
9.26(11. 7) 長州間者として新選組に潜入した御倉伊勢武、荒木田左馬之允、楠小十郎の三人、前川邸屯所内で斬殺され、越後三郎、松井竜三郎、松永主計の三人は脱走する
10.10(11.20) 近藤勇、諸藩周旋方と祇園の『一力』で会合、議論を交わす
10.15(11.25) 近藤、幕府からの新規召し抱えを辞し尽中報国を上書する。この頃京都守護職より、給料(歳三は月三両)を支給される
  この頃の歳三の拵えは、太刀に2尺8寸の和泉守兼定、脇差に1尺9寸5分の堀川国広(10/20付勇の手紙より)
11. 9(12.19) 堀田摂津守家来西条幸次郎、壬生浪士岩崎三郎を騙って、大文字屋源蔵宅へ無心
11.11(12.21) 西条幸次郎を捕らえ、西町奉行所へ突き出す
11.  歳三、郷里に自分宛の恋文を送る。小島鹿之助、平忠兵衛・作兵衛に手紙を出す
12.27( 2. 4) 家茂江戸出発、海路上京。この日芹沢派最後の野口健司切腹。暮れ、幕府は新選組の処遇を決定。局長は大御番頭取の扱いで50両、副長は大御番頭で40両、副長助勤は大御番組で30両、平隊士は大御番並で10両を毎月支給

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